どうしようもないこと

ジャニーズ/二次元に生きている20代後半女

SMAP25周年 おめでとう。

25周年。心から、おめでとうございます。


25年前、1991年に起きたことを調べてみると、
東京都庁が新宿に開庁・電話番号が10桁になり・宮沢りえさんの「Santa Fe」が発売された年だった。


そのうちの何一つとして、終わりを迎えてはいない。
都庁は新宿にそびえ立っているし、電話番号は10桁のまま、宮沢りえさんはますます活躍なさっている。
1991年の出来事を調べると、いくつかのサイトで「SMAPがデビュー」と記されていた。
胸を裂かれるような思いだった。



前回の記事で、SMAPは私の半分だと書いた。

あらためて、SMAPのいろんな楽曲を聴いてみると、どうしようもない重さの、自分の力だけでは抗えないような大きなうねりの中に飲み込まれても、希望が僅かでも、前に進もうと歌う5人の声があった。

そのうち一曲、私にとって切り離せない曲がある。



私がSMAPの楽曲の中で一番思い入れのある曲で、思春期の、自分という器にいろんな限界を感じ始めていたころの、言葉にできない不安を救ってくれた。
『見果てぬ地へ思い馳せては 力だけを求め続けてた
幼い心を鼓舞して 夢見て』
『過ぎ去りしDays 駆け抜けたWays
憧れ 泣いた あの夢は誰が手に入れたのだろう?』
大人になって、一生の仕事にしたいと決めガムシャラに頑張っていた職も身体を壊してできなくなり、燃え尽きて食事も取れなくなったころ、しばらく毎日聴き続けた。
数ヶ月自宅に引きこもり続けて、体重も10キロ減り、ふと思い立って外に出たくなった夏の日の夕方、自転車で無我夢中に走りながらこの曲を聴いて号泣した。

シングル曲でもない、ファン投票のランキングでも上位に入らない、それでも私はこの曲のイントロを聴くと、未だに肌が粟立つ。


そんな曲を、一生に一度の出会いをした曲を、自分の手足の短さも、頭の小ささも、世界の広さも知らなかったころからライブに足を運んでいたSMAPが歌っていたことを、心から感謝している。
あの6人が集まったこと、ひとりが欠けて5人になってもこの日まで彼らが彼らであったこと、同じ時代に生まれ、SMAPのファンになったこと、すべてが運命だとすら感じる。



世間に大声で誇れるアイデンティティーなんてひとつも持たない、普通の、ただの、何の才能もない、つまらない人間でしかない私でも、
SMAPを愛している自分だけは、誇れる自分だ。
SMAPこそが、私にとって運命の人たちだった。何の根拠も理屈も、飾り気も面白みもなくても、はっきりと言える。
憧れ泣いた夢も、他の何を手に入れられなくても、彼らと出会えた人生が、私の幸福そのものだった。




たったの50年、どうか一緒にいさせてください。